雀がいっぱいたかっていた。
ここは、山田奈緒子の住む――というより棲むアパートの傍の曲がり角。
道路に倒れているのは、今しがた出会い頭に上田次郎と衝突した山田である。辺りには米が盛大に散乱して白い惨状を造り上げ、其れは山田の体にも著しく降り掛かっていた。
そして、雀。
町内中の雀が集まってきたかのようだ。人に慣れない日本の雀が、一人の人間にこのように群がる様は、おいそれと見られるものではない。
「何見てんだ」
「いや。ブッダの涅槃みたいだぞ YOU」
「誰のせいだと思ってるんですか、いきなりでかい図体して現れやがって――って、ああ! 半年ぶりのお米!」
山田は懸命に腕を振り回したが、軽やかに掻い潜る雀軍団には、焼け石に水だった。
――ぶちまけた米は、山田のバイト料一カ月分だった。
昨今の不景気の中、奇跡的に見つけたスーパーの試食販売員のバイトの。
スーパーは今朝、営業不振のため突然閉店したが、給料だけは死ぬ思いで毟り取ってきた。
いい加減パンの耳に飽き飽きしていた山田はめでたく米を買い、ずっしりと重い袋を下げ、しかし心は軽やかに家路を行っていたのである。
それなのに。――地面に叩きつけられた衝撃で袋が破れ、米は残らず路傍の露となり、雀の胃袋に満ちて、やがて四方八方に飛び散って行った。
夕陽が、物悲しく山田の影を伸ばす。
「――楽しいか、上田」
「噛み付くなよ。 ところで、中国人が日本に来て驚くことって何だと思う」
「知りません。 ていうか上田さん、なんで人ん家の周り、うろうろしてるんですか」
山田は立ち上がってスカートを払いながら、ぶっきら棒に言った。 例の如く、上田は耳が遠くなった。
「麻雀てあるだろう。 あれは中国語では雀という意味なんだ。 だからチャイニーズは、何故この国には雀屋さんが一杯あるのかと疑問に思うわけだ」
上田はどこからともなく、ポータブルのゲームボードと思しき箱形を取り出して、振った。中には牌が入っているのだろう。からから、と五月蝿く鳴る。
「で?」
「俺と勝負しないか。 YOUの部屋で」
「なんですか いきなり」
「話すと長くなる」
「じゃ遠慮します。さよなら」
我が家に向かおうとした山田を、上田は「Wait」を連呼して止めた。
「まあ待て。こうしないか、俺が負けたら米を買ってやる」
山田の目の色が変わる。
***
アパートの陰気な階段を登る間に聞いた話によれば――上田は先日、居酒屋で行われたぜミコンの際、学生に麻雀を挑まれ、ものの見事に完敗したらしい。上田がくどいほど捏ね繰り回した話をだいたい要約すると、そういうことが解った。
「それで、私を負かせば傷ついた心が癒せると思ったんですか」
「語弊があるぞ。俺はただYOUに麻雀を教えてやろうと思っただけだ」
「私麻雀知ってますよ。・・・・・・上田さん」
山田は鍵を開けた。
「何だ」
「面子、足りないですよ。 二人じゃ」
「あ」
上田は間抜けに口を開いた。 学生に負かされたという話が、呆れるほどに真実味を帯びる。
「仕方ない。・・・・・・じゃあトランプにするか。 持ってるだろ」
山田に続いて部屋に上がりこみながら上田が言った。
「麻雀やりにきたんじゃないんですか」
「面子が足りないなら仕方ない。これは代償行為といってな」
「ああ、トランプもやったんですね、ゼミコンで」
「なんで解ったんだ」
それで負けたんでしょ、とは山田は言わなかった。何せ米の手前である。
トランプは世話が無いことに、卓袱台(ちゃぶだい)の上に揃えて置いてあった。山田と上田は卓袱台を鋏んで座った。
「で 何するんですか」
「婆抜き」
「なんで。 二人でとか、究極につまらないじゃないですか」
「他に二人でできるのあるか」
「あるだろ普通に。・・・・・・七並べとか、神経衰弱とか・・・・・・」
言いつつ、七並べや神経衰弱に上田とふたり興じる様を思い描き、あまりいい気持ちのしない山田であった。
「いいですね。 婆、抜きましょう」
山田は板についた仕草で53枚のトランプを切った。
「どーっちだ?」
山田は、2枚のカードをVの字に広げた。その口元には、不敵な笑み。と、ご飯粒。
日はすっかり落ち、山田の質素な部屋は蛍光灯の白い明かりで満ちている。外では、先ほど始まった雷鳴が、不機嫌に唸るように鳴っていた。
卓袱台の上には棄てられたカードの散乱があり、そしてその脇には、寿司・宅配ピザ・叉焼(チャーシュー)麺が所狭しと並んでいる。
すでに勝負は10回以上行われており、山田の全勝である。上田は何処までも食い下がった。勝つまでやめないつもりだろう。山田は、上田の雪辱戦を受ける対価に、しめしめと出前を得た。
――上田も、(何故そう自信がもてるのか)鼻を鳴らして笑むと、上田から見て左のカードを抜き取った。表情が一瞬強張り、間もなく仏頂面に変容する。
上田は、二枚のカードを卓袱台の下で執拗なほどによく交ぜてから、両手の中に隠して台の上に現した。
「上か下か?」
「下」
山田の即答。上田は上下のカードをずらして、下のカードをこわごわ暴いた。ハートの6。
「ばんなそかなッ!」
「しゃしゃしゃしゃ」
山田は奇怪な笑い声を上げると、最後のカードを捨てた手でピザを取って齧り付き、がつがつ喰った。本当に、がつがつと音がした。
「くそ、有り得ない」
上田は広い額を押さえた。
「YOU・・・・・・イカサマしてるんじゃないだろうな」
「ひははま? ほんはこほひへ(そんなことして) わはひに(私に) あんほおぐが(何の得が) ?」
山田はごくんと呑み込み満足そうに笑むと、ラー麺鉢を掲げて豪快にすすり始めた。
「得だらけだろうが」
「・・・・・・上田さん、もう7時です。いい加減帰ってください」
「勝ったらな。 勝ち逃げはさせないからな」
「別に逃げません。 上田さんがすごすご出て行くだけで」
雨の音がし始めた。雷鳴も、心なしか近付いてきている。
「あ・そうだ。洗濯物干しっぱなしだろ。 入れて畳んでやるから、な?」
「何が『な』だ。そんなことしなくていい――ちょ、ちょっと・・・・・・!」
「カード切って、配っといてくれよ」
山田は必死で纏わりついたが上田はものともせず窓に寄って行って、軒の下に吊るしてある山田の洗濯物を取り込み始めた。目の前にいる女の下着を鷲掴みにするこの男の神経が、山田には理解出来ない。
米を得、飯を出させればその後は、上田は山田にとって百害あって一利無い。
「出てってください上田さん――上田っ! 訴えるぞっ!!」
「そんな金あるのか、米買うのもやっとのくせに」
鼻で笑う上田、言葉に詰まる山田。
「う、五月蝿い! とっとと帰れ! ジャン牌でも喰ってろっ!」
「ドウドウ。――あと一回だけ」
上田は洗濯物を畳に抛り捨て、窓を閉めた。
山田は信用出来なかった。この後も山田が勝ち、上田が「もう一回」と食い下がり、イタチごっこが始まる展開は目に見えている。
ようは山田が負ければ――上田のあまりに感情の出やすい表情を読む、という今までの戦法を裏返して使い、意図的に負ければ――いいだけの話だが。しかし、この男の鼻の穴が膨らむ様を思うと、途端にイラッとしてしまう山田であった。
上田に押されて、再び山田は卓袱台に向かった。
向かいに座り、上田がカードを繰る。鼻歌を歌っている。何が楽しいのか――こいつ、このまま泊まる気じゃないだろうな、と嫌すぎる予感が山田の胸をよぎった。
こうなったら・・・・・・
上田がカードを分配する。
「上田さん。どうしてこの部屋、家賃が格段に安いのか、知ってますか?」
「ボロくて狭いからだろ」
「・・・・・・私もラッキーだと思っていたんです。住み始めるまでは・・・・・・。 ところが、ある晩のことです。あれは、暑い夜でした。――私は、目を覚ましました。喉が渇いたんです。・・・・・・」
「YOU、カードを引けよ」
「でもだるくて、布団の上でじっとしていました。すると・・・・・・変な音がするんですよ。この部屋のどこかから。・・・・・・きゅるきゅるーっ・・・・・・きゅるきゅるーっ・・・・・・」
かっ、 と窓の外で稲妻が閃いたと思うと、山田の部屋の電気が ふつ と消えた。
雷のせいで停電したらしい。
「あっ――懐中電灯、懐中電灯」
立ち上がった山田は、腰にしがみつかれ、本日二回目の転倒をするところだった。
「っちょ、上田さんっ」
「へ、変な音がする・・・・・・っっ」
上田がぎゅうっと抱きついてきて、山田はヤメロ!と叱咤した。
「落ち着いてください上田さん! あの話は・・・・・・」
きゅるきゅるーっ・・・・・・きゅるきゅるーっ・・・・・・
闇の中に飛び交う、奇妙な音。まるで珍獣の鳴き声のようだ。
ドサ
という音とともに、山田は解放された。
山田は薄明かりを頼りに壁伝いに歩いて、勝手知ったる箪笥から懐中電灯を探し出し、点けた。
まず照らしたのは、畳の上に大の字に伸びている木偶の棒。
続いて、棚――プラスチック製の虫かごがふたつ並んでいる。それぞれハムスターと亀が入っている。
まるまると太ったゴールデンハムスターが一匹、おもちゃの滑車を一心に回していた。滑車は、山田がだいぶ前に、愛ハムの運動不足を見かね、というのは口実で――単に好奇心で買った物だ。
きゅるきゅるーっ・・・・・・きゅるきゅるーっ・・・・・・
滑車が回るたび、そんな音を立てるのだ。
山田は再び上田を照らした。
小さい頃に読んだ「ガリヴァー旅行記」の挿絵を思い出す。
ボンレスハムみたいに小人に縛られたガリヴァー。小人にとっては、とりあえず巨大なガリヴァー。 でかっ。
「まったく。仕方ない、泊めてやるか。・・・・・・――なわけないだろ!」
一人ノリ突っ込みを展開すると、山田は上田の足を掴んで、ぞんざいに玄関へ引きずっていった。
「いいか、米を送れ。忘れるんじゃないぞ」
喘ぎ喘ぎしながら廊下に上田を放り出すと、山田はしっかり施錠して、一仕事終えたという風に手を叩き合わせた。
さて、腹も膨れたし。出涸らしでも飲もうかい。
未だ真っ暗な部屋のなか、手探りで茶の用意をしていると、戸がガンガンと叩かれた。
「ヤマダヤマダ!廊下に粗大ゴミ捨てるの禁止!!」
大家・ハルである。山田はちっと舌打ちした。
たく、なんて厄日だ。
<終>