「おいで、私の寿庵」
益田四郎時貞は逞しい腕を広げ、甘い微笑みで寿庵を呼ぶ。
胸が高鳴り、寿庵は言われるまま、その胸に飛び込んだ。
「嗚呼、ずっとお慕いしていました、四郎様!」
「私もだ。もう離さないぞ、寿庵」
四郎にぎゅっと抱擁され、寿庵は、彼の瞳をうっとりと見つめた。
やがて近付いてくる唇に、寿庵が目を閉じた時――
ドンドンドンッ「寿庵様!!」
寿庵は覚醒した。暗闇の中辺りを見回す。そこは私室である。
慌てて今の映像を脳から掻き消すと、激しく扉が開き、配下が駆け込んできた。
「どうした!」
寿庵は跳ね起き、布団の横に配下は膝をついた。
「お休みのところ恐れ入ります!益田四郎時貞様がお見えです!」
「なに、本当か!?」
寿庵は目を瞠った。と同時になんてタイミング・・・・・・と内心妙に焦った。
「口之津の闇市に、今」
「お招きしなくては!」
「恐れながら寿庵様」
「何だ!」
「いえ、あの・・・・・・お鼻血が」
「え?」
はっと下を見れば、白い布団に、点々と紅い点。
***
「お待ちしていました、四郎様」
寿庵は跪き、低く頭を下げた。
闇市の騒動から四郎時貞を連れ出して、この屋敷に招き入れることに成功した。寿庵は、自分こそが今この口之津の闇市をとりしきる『さんじゅあん』であると明かし、兵を挙げるよう四郎を説得しにかかっていた。
「生前、父も言っていました。島原藩の良民が苦しむ時、民を率い立つのは、あの若者だ――四郎時貞殿だと」
四郎は、いたく衝撃を受けた顔で固まっている。それもそのはずだ。彼は、反乱軍の陣頭指揮を任せるために、寿庵の父山田右衛門作を頼ってやってきたのだから。
「少し・・・・・・二人きりにしてもらえませんか。私と寿庵殿を――二人きりに」
寿庵は頷くと、四郎の嫁婿の渡辺小左衛門を奥の間に通すよう、配下らに指示した。
一度、静寂。
寿庵は平静だった。が、少しどきどきしていた。
私と寿庵どのを二人きりに。その台詞がいやに頭の中を廻る。そして、自然思い出すのは先刻の夢のこと。深く思案している様子の四郎を見守りながら、ついその指に、其れが当てられている唇に目が行ってしまう――場を読め、と寿庵は自身を窘めた。
四郎は、困窮極まる、といった長い息をつくと、振舞われた葡萄酒をぐっと呷った。寿庵はすぐさま酌にまわる。
「貴女までが、私を追い詰めるとは・・・・・・」
「追い詰める?」
寿庵は微かに眉を上げた。
四郎は頷き、うな垂れた。人魂がまわりに浮かんでいるのが見えるようだ。
―― 駄目だこりゃ である。
「でもそんな貴方が好き☆」と陳腐な文句が閃いたのを即座に流しつつ――何かが心臓のあたりを忙しなくくすぐるのを感じ、寿庵は四郎の肩に手を置いた。
「寿庵殿・・・・・・?」
目を上げる四郎。
瞳と瞳が合うと、急に喉が渇いた。寿庵は咄嗟に盃に手を伸ばした。
「あ、寿庵殿」
「追い詰めているというわけではありませんよ。・・・・・・」
寿庵は、サッと目を逸らして葡萄酒を口に運んだ。
四郎はその様子を繁々と眺めてから、言った。
「それは私が飲んだ盃ですが」
寿庵は噎せ、崩れ落ちた。
「ああ寿庵殿」
「げっほ――申し訳ありません――っ・・・・・・」
「大丈夫ですか」
「大丈――大丈夫です・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「寿庵殿」
四郎が覗き込んで来る。寿庵は慌て、テーブルに頭をぶつけつつ立ち上がり、咳払いして髪を整えた。
その上、出血が治まったばかりの鼻を密かに確認した。
<・・・・・・終>