先ず見えたのは、灰色の空だった。
青年はゆっくりと記憶を手繰りつつ、痛む身体を起こす。潮の匂いの風が冷えた肌を擦り、青年は歯を鳴らして震え、自らを抱いた。
青年が乗っていた船も、漁師仲間の姿も見えない。ただ、ごつごつとした岩の大地がある。朽ちた木材がその所々に突き刺さり、散らばっている。その景色が、落ち着かぬ波を立て続ける海まで続いている。
青年はふらりと立ち上がると、素足で岩を踏み歩き始めた。
べん。
潮騒の上に、ひとつの音が走り出た。
青年は驚き、止まる。目をめぐらせば、うしぐるまほどの岩の上に、一人の人間が琵琶を抱え、座っていた。角頭巾のついたゆったりとした外套に隠されて、顔は見えず体つきも判らない。
その奇妙な光景に、無性に鳥肌が立つのを感じ、青年は素早く問うた。
「何をしている」
べん。
青年は岩を駆け上がると、其れの肩に手を掛け、角頭巾を掃った。
黒く艶やかな髪が零れ出て、荒ぶる風によって空中に広がる。青年は息を呑む。濡れたように光る黒の瞳で見上げてくるのは、妙齢の女だった。ふわりと丸みを帯びた輪郭は優しげだが、顔の中には、表情というものが見受けられない。
「私は見ているのです」
「何を・・・・・・」
唖然としたまま青年が呟くと、女は静かに顎をもたげた。その示す方を見やったが、相変わらず低くよどんだ空と揺れる海があるばかりだ。
気が触れているのかもしれない、と青年は思った。それにしては小奇麗な女だが・・・・・・。しかし、相手が言葉を話せるとわかった以上は、尋ねてみるべき問いがあった。
「ここは、どこだ」
「原城」
「原城――!? あの島原一揆の?」
女が頷き、青年はまたしても驚いた。
ここが、原城の跡地。本当だとすれば、青年の踏む大地には、キリシタン一揆軍三万七千人の亡骸が眠っている。
幕府がここに総攻撃をかけ、原城を攻め落としたのは、つい一月ほど前。
その噂は、まだ波及している途上である。そして、行き渡った土地の人々に衝撃を与え続ける。
――なるほど、其れゆえにこの大地は残骸にまみれているのか。
青年が言葉を失っていると女は
「どんな様子ですか。今、世態は」
と言った。
青年は、呆然と荒野を見渡しながら女に語った。
乱後、幕府による禁教政策はいっそう強化され、その翌年には鎖国体制が完成した。
「キリシタンは・・・・・・」
彼らは依然淘汰され続けている。そして――
キリシタン目明しには反乱軍の武将であった人物が加わり、密偵としてキリシタンたちの内部から働きかけ、混乱を巻き起こしている。ここ原城の惨劇の、唯一人の生き残りであるその者の名は
山田寿庵
と流布している。
べん!
女が立ち上がり、青年は岩の上から足を踏み外しそうになった。
女は、あとは何も言わず、こちらを見もせず、軽やかに飛び降りると、琵琶を負って歩き始めた。
青年は立ち尽くした。乾いた言葉だけが、口から転がり出て女を追う。
「お前は――?」
ふと空を黒いものがよぎる。
見慣れぬ黒い羽の鳥が、美しく囀りながら輪を描くように飛んでいく。
女は琵琶を奏で、唄う。
――私は、迷鳥。この身は、千年の闇を歩く。
びょう。
強い風に青年は思わず顔を覆った。
再び見たときには、女の姿は何処にも無かった。
<・・・・・・終>