「博士――!?」
六角塔最上階。巨大な窓から人工の朝陽が満ちる指令室にて、クラウスは戦慄していた。
重量感のあるデスクの前に、落ち葉の如く大量の紙が散らばっている。その中に倒れていた白い枯れ枝のような物体が自分の協力者だと気付くのに、数秒かかった。すぐさま駆け寄り、骨っぽい肩を揺すぶる。
「博士っ、しっかりしてください!一体何があったんですかっ」
「ん・・・・・・クラウス」
白い顔の中で、くまどりのような褐色の瞼が力なく開き、ブルーグレーの瞳があらわれたとき、クラウスは心底からほっと息をつき、ビンタを繰り出そうと振り上げた手を収めた。
「・・・・・・眠ってしまったか・・・・・・徹夜で書類をまとめていたら、突然意識が。すまない」
よろよろと身を起こすディミトリーに、一抹の不安を覚えるクラウス。
「健康には、十二分に気を遣ってくださいよ。いま博士に倒れられては困ります。といっても・・・・・・博士、自己の健康管理なんて、得意じゃないんでしょうね、見るからに」
まさに、ディミトリーは、痩せ型の研究者にありがちな、研究に没頭すると寝食忘れ、やつれきってしまうタイプである。
「教授たちがロンドンから戻ったら、すぐに対面してもらうことになります。なんとかそのまえに、そのヘロヘロのコンディションを整えてもらわないと」
「私は平気さ。気にしなくて結構」
「いいえ!」
クラウスは、ディミトリーの眉間にビシリと指を突きつけた。計画に僅かな支障もあってはならないという信念が、口を動かす。
「ディミトリー博士、僕が貴方のヘルスケアをしましょう」
「なんだと」
「健康の基本は、食事、運動、睡眠。思うに貴方はどれひとつなっていないでしょう?食は細いうえに不規則。運動・睡眠の不足はいうまでもない」
「もう慣れた。それが私の生活だ。研究者とは、そういうものだよ君」
「今大丈夫でも、そのうち報いが来ますよ、体をないがしろにしていては。生活習慣病は未然に防ぐしかないんです。メタボ予防です。ボケ防止です。さぁ博士、健康になりましょう。そして、ばっちりの状態でレイトン教授に挑んでください」
「・・・・・・」
離さないぞとばかり手を握り締められ、不敵な笑顔で追い討ちを掛けられては、ディミトリーも返す言葉がなかった。
***
「それでは、朝食の前に軽い運動をしていただきますよ。シャトルランを」
厚手の絨毯は取り去られ、そこはだだっ広い空間となっていた。ディミトリーは軽装にさせられた。
「こちらの壁から、あちらの壁まで、音楽が鳴り終えるまでに走りきってください。音楽はだんだん早くなりますから、まぁ死なない程度にがんばってください」
「あぁ、なんて軽いんだ」
「それでは、よーい」
パチン。クラウスが指を鳴らすと、音階が流れ始めた。腕組みするクラウスに監視されながら、ディミトリーは走る。
「男子は40往復が目標ですからね」
「40・・・・・・」
「ですが博士は、僕がいいと言うまでやめないように」
「・・・・・・――」
逃げ足は逞しいが、持久力は無い。またたく間にディミトリーの呼吸は荒れ、15往復もしたところで、音階に追いつけなくなった。そして、突如転倒したのは、それから2往復後。到底立ち上がれず、長い平穏から叩き起こされた心臓は暴れまくり、ひどい吐き気と脇腹に刺し込むような痛みに見舞われた。胃に何も入れていなかったのが幸いである。
「もうギブアップですか・・・・・・17です。それじゃあ、お風呂に入って汗を流してきてください。それから、バランスのいい食事を摂って貰いましょう」
「何も食べる気がしない・・・・・・」
ディミトリーが喘ぎ喘ぎ言うと、クラウスは、帽子のつばをつまんで品良く笑った。
「鼻から押し込んででも食べてもらいますからね」
お前、本当に私を健康にする気なのかと問いただしたかったが、その気力も失せた。ディミトリーはふらつきながら、ここ六角塔に密かに備え付けてあるバスルームに向かった。
***
「さ、どうぞ」
「・・・・・・量が」
「事情を話したところ、コックがはりきってくれましてね」
「・・・・・・」
指令室には再び絨毯が敷かれ、朝食にしては多い料理が執務用のデスクに並べられた。クラウスもその席に着いている。
ディミトリーは渋々、野菜から口に運び始める。
「・・・・・・ライオンは、山羊に比べて腸がかなり短い」
突如、そんな事を言い始めるディミトリー。気をそらしたいのだろう。
「何故か解るかね」
「肉食だからですか」
「その通り。動物は、それぞれの食に適応した体のつくりになっていて・・・・・・とどのつまり、私は小食であり、それを長年続けてきたのだから、当然体もその習慣に適応しているだろう。だから、沢山食べるということは私の体にとってプラスでは・・・・・」
「四の五の言わないでください。 あ、よく見たら山羊みたいな顔してますね、博士」
「・・・・・・」
しれっとした顔で、スコーンを齧るクラウス。
「いいでしょう、全部食べろとは言いません。ただバランスよく、これとこれと」
クラウスは立ち上がると、料理を選んで取り分け、ディミトリーの前に並べた。野菜料理、卵料理、パンなど、ざっと10品目ほど。確かにバランスは整っていそうだが、食慾の薄いディミトリーにとっては、ただ多い。
***
結局ディミトリーはノルマを果たせなかった。ディミトリーが手を動かせなくなったのを見て、クラウスは渋々といった風に許した。
永遠に続くかと思われた食事を終えると、クラウスの手配を受けた手下たちによって何処からとも無くベッドが引かれてきた。
「では、おやすみなさい」
ディミトリーはというと、胃もたれで気分が悪く、喋るどころではない。下腹を押さえて、言われるまま横になった。クラウスはその足元に腰掛けた。
「毎日続ければ、健康な生活に体が慣れてきますよ。最初は体調が優れないかもしれませんが」
「色々間違っていると思うが・・・・・・」
「なにか?」
ディミトリーは黙った。気持ち悪いせいか、これ以上の問答は無意味と察したせいか、その両方だろう。
「休息が必要なんですよ、博士」
「――博士?」
急に、静かになった。
クラウスは違和感を感じて、ディミトリーを覗き込んだ。
なにか、妙だった。
伏せられた瞼は微動だにせず、こけた頬は蒼白だった。そして――
「博士っ!息してください!」
クラウスは仰天して叫んだ。
***
急性の胃炎、と医者は判断し、安静を指示して帰って行った。呼吸が止まって見えたのは、痛みに息を詰めていたからだとか。
痛みは治まったらしいが、ディミトリーは前よりいっそうげっそりした様子でベッドに横たわっている。
「・・・・・・大丈夫ですか」
「今はね。かなり痛かったが」
「すいませんでした。僕のせいで。そして、さっきはリアルに死体かと思いました」
クラウスは頭を下げた。
「博士の体には、博士の体なりの都合があるんですね。無理なことをさせたのが間違いでした。でも、顔色の悪い博士を見ていると心配でつい・・・・・・申し訳ない」
クラウスはディミトリーの、筋張った、骨と皮だけのような乾いた手を握った。
「・・・・・・クラウス」
「毎日、ラジオ体操を励行するということでどうでしょうか。これなら無理なく続けられますね。それとまあ、1日3食しっかり食べて、6時間以上は寝ること。これで、いいでしょう」
「・・・・・・まぁ、いいがね」
いいけど、一応敵役なのに、ラジオ体操とは、絵ヅラ的にどうなのだろう。だが、今日の騒動もなかなかに間抜けな感じは否めないか・・・・・・。またひとつ溜息をつくアラン・ディミトリーだった。
<end>
マ・イ・ナ